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パチンコ・パチスロの様々な事情。アジア情勢、ニュース論評など、真面目じゃない筆者が好き勝手に書くブログ。
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カテゴリ:パチンコの歴史( 3 )
パチンコの歴史 発展期後編
昭和25年9月。名古屋市内でパチンコ機器を製造していた伊藤寿夫の下に一人の男が訪ねてきました。
訪ねてきた男こそ正村竹一。そして、伊藤寿夫は当時、寿製作所として巷で評判のパチンコ製作所の技術者でした。
「正村ゲージ」が好評で生産の追いつかなくなった正村竹一が工場を増やしていくのは当然の流れで、その後、寿製作所は正村商会の第2工場となり、最終的に株式会社正村商会は第8工場、従業員数700名を抱える企業にまで発展します。

飛ぶように売れる正村商会のパチンコ。
昭和26年においての月間生産数は二万台。正村ゲージのパチンコは7000円で売られていたので、月間売上額は1億4000万円だったそうです。
当時の給料は3000円くらいでしたので、現在に換算しても、かなりの売上を誇る企業として成長したのでした。
このジャパニーズドリームとも言える成功を手にした正村竹一を世間は「今太閤」と呼んだそうです。

ですが、このように売れる「正村ゲージ」が真似されない訳がありません。
他のパチンコ製作所はこぞって正村ゲージのコピーを作り始めました。

まず、正村商会のパチンコ台を購入し釘を全部抜きます。そして、釘の刺さっていた穴をベースにして釘を打ち込んでいくと本物と全く同じゲージ構成のものが出来上がります。
他の製作所はその模造台を一台3500円で売ったのです。

ところが半額の模造台よりも、正村商会のパチンコ台の方が売れました。
全く同じように作っているはずなのに「球の動きが違う」と言うのです。

これには、こんな理由がありました。
正村ゲージでは、釘をほんの少し斜めに打ってありました。これは正村竹一が大工をしていた時に「釘は斜めに打て」と教わっており、その教えを実践していたのです。

現在のパチンコも横から見れば斜め上を向いて釘が刺さってる事がわかります。大体約5度の角度です。これが逆に釘が下に向いている場合は出したくない時の調整と考えてください。

そして、パチンコの釘の長さは一寸(33mm)。これを正村竹一は15mmの打ち込みでしたが、模造台では17mm打ち込まれていました。
盤面に出ている釘の長さを比べると本物の方が長くなっていた分、釘の玉が当たる範囲が広いので球が釘上によく絡み、それが原因で玉が跳ね面白い動きをしたのです。
釘穴だけをベースに造られた偽物なので、模造台を作った職人達にはわからず、玉の動きまではコピー出来なかったのです。
さらに、釘の間隔が0,05mmで違った事や、台の寝かせ(傾斜)も原因にありました。

ただ表面だけを繕った模造台には出来ない微妙な違いがあったんですねぇ。

正村竹一は全国に販路を拡大し、量産体制をしき、製造・販売からメンテナンスなどのシステムも作り上げ、ただの小さなパチンコ屋を大パチンコ企業に変えました。
単なるアイデアだけではなく、実業家としても成功したのです。

そして、これほどのパチンコ台を製造、販売出来たのは名古屋という地域的要因も見逃せません。
その要因は、台を支えるベニヤ板が明治時代後期から東海地区の主生産物であった事で、戦後、名古屋港から紅茶用の木箱の輸出が再開された時に、この木箱のサイズがパチンコ台とほぼ同じであった為、正村竹一は目をつけ利用したのです。
さらにガラス板も愛知県渥美半島の温室用のガラスが空襲を免れて残っていた為に利用でき、パチンコ玉は中島飛行機を初めとする軍需工場で生産されていたボールベアリングを転用出来たのです。
このように名古屋は必要なものが揃っており、まさにパチンコを生産する事において最適地だった訳です。
近代パチンコ発祥の地が名古屋と呼ばれているのも頷けますね。

パチンコはただ、「正村ゲージ」という発明だけでなく、色々な要因が重なり発展していったのですねぇ~。
今あるパチンコ業界はこのような形でジャパニーズドリームをも生み出していたのですね。

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正村竹一は1975年10月18日に亡くなりました。
「株式会社 正村商会」は遊技場の経営を今でも続けています。
そして、第2工場であった伊藤寿夫の寿製作所は「まさむら遊機」として独立し、現在もパチンコの製造、販売を続けています。


最後に、パチンコを全国に普及させ発展させた正村竹一が「パチンコの神様」と呼ばれる理由の一つにこんな話が残っています。

正村商会のパチンコが飛ぶように売れていた時、模造台が多く出回りました。
その時、人々はこう指摘しました。

「正村ゲージでなぜ特許を取らないのか?」

正村竹一はこう答えました。

「真似してまえるくらい、いい機械つくったら、それでいいがや」
「みんなで仲よう使やええがや」

この言葉こそ「パチンコの神様」と呼ばれた最大の理由であったと思います。
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by bar-_-seven | 2005-01-20 18:33 | パチンコの歴史
パチンコの歴史 発展期前編
パチンコの発展期を支えた人と言えば「パチンコの神様」と呼ばれた正村竹一氏です。
「正村ゲージ」を考案したこの人なしでは現代のパチンコは無かったでしょう。
今回は近代パチンコの基礎を築いた正村竹一氏とそれを支えた人々のお話です。


さかのぼる事、昭和11年から12年頃。名古屋で藤井文一という人が、それまで主流だった一銭銅貨などメダルを入れる方式から、直接玉を入れる「鋼球式」を考案します。
そして、この新製品を作るためパチンコ台を作る上で必要なベニヤ板やガラスなどを探しに行きました。そこで行き着いたガラス屋の主人が、後にパチンコの神様と呼ばれる正村竹一だったのです。

正村竹一は明治39年9月5日に岐阜県の貧しい農家に生まれました。21歳の頃、単身名古屋に出て大工なども経験し、最終的にガラス商として独立。そこで前述の藤井氏と巡り合った訳です。そしてこの縁がきっかけで正村竹一もパチンコ屋を開業します。
この出会いがなければ現代のパチンコは無かったんですねぇ。

さて、パチンコの歴史 黎明期編で書いた通り、この後日本は戦争に突入しパチンコが全面禁止になります。
そして全国の大都市が空襲で焼け野原となったように、例外なく名古屋も大空襲を受けました。
正村竹一もB-29の爆撃によって負傷し長い闘病生活を強いられる事になります。
しかし奇跡的に正村竹一の店を含む周辺は被害を免れていたのです。
そして、昭和21年。わずか20台のパチンコ台からパチンコ店を再開します。
敗戦直後の状況においても、正村竹一のパチンコ店は大繁盛しました。
しかし、大人気なのはいいがパチンコ台が足りない。
そこで、正村竹一は自らパチンコ台の製造に乗り出します。

当時のパチンコ台は釘が盤面一杯に等間隔に打たれていました。
ですから、作った試作機を打ってみてもボトボトと玉が落ちるだけ。

そこで、正村竹一は等間隔に打たれた釘を1本、2本と抜いて打ってみました。
そうすると抜かれた部分に隙間が出来て、その隙間では玉が釘に当たって跳ね、次にどこへ飛ぶかわからない動きをしました。

このひょんな出来事から次々と正村竹一の頭脳に閃きが生まれます。
「まずは、玉が飛んで最初に当たる部分・・一番高い所『天』だ!」
初めに「天釘」が、そして天釘にあたって玉が流れる「カタ」の部分や八の字や逆八の字にした「ハカマ」など次々と出来ていきました。

色々試作し打って動きを追ってみる。釘の並びだけだとつまらないから風車もつけてみる。
こうした試行錯誤の末、それまでのベタ釘ではなく、まったく新しい「正村ゲージ」が誕生したのです。
そしてさらに正村竹一の従兄弟にあたる長崎一男氏が発明した「オール物」。
これは、それまで入賞しても2,3個だった賞球を、どこの穴に入っても10個や20個などの玉を一気に払い出す装置です。

「天釘」の同じ場所に玉を打ってもどこに流れるかわからないくらい、玉の軌道が変化する「正村ゲージ」と入賞すると一気に20個の玉を吐き出す「オール物」の融合により、正村竹一の店は連日満員の大盛況となります。
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昭和24年の出来事でした。
                           正村竹一氏

まずは自分で何が面白いのかを、実際打ってみて試行錯誤した正村竹一でしたが、現在でも、この「正村ゲージ」が基本になっているという事は、ある意味開発した時点で完成型になっていたと言う事ですねぇ。
正村竹一が「天釘」を基本にしたように、現在でも釘師が釘を叩く時は「天釘」から叩き始めるのが基本です。

そしてこの「正村ゲージ」からパチンコが発展していったのは、さらに様々な理由がありました。
続きは「パチンコの歴史 発展期後編」にて
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by bar-_-seven | 2005-01-18 16:36 | パチンコの歴史
パチンコの歴史 黎明期編
パチンコが発展していったのは、様々な人々の創意工夫と努力があっての賜物です。さらに時代背景により色んな影響を受けてきました。
ご存知の方も多いかと思いますが、今回はパチンコ発祥の原点から戦中までのパチンコ事情を振り返ってみました。


大衆娯楽の王様パチンコの原型は、大正時代に欧米から輸入されたバガテル、コリントゲームと呼ばれていたもので、コインを入れると盤面内に玉が出てくるスマートボールのようなゲーム機でした。
宝塚新温泉などに設置されていて、賞品もお菓子。まさに子供向けの「遊戯機」でした。
それを当時の国内の業者が見よう見まねで製造し、デパートの屋上や駄菓子屋など子供をターゲットにした場所に設置され普及していったのです。

舶来品をまずは見よう見まねで作ってみる。ここまではただのコピーでしかありませんが、そこから発展し独自のモノに改良、改善していくのが日本の文化ですよね~。
漢字から平仮名をつくり、カタカナにも発展させた事。カレーにしてもラーメンにしても、独特の創意工夫、改良で日本のオリジナルにしてしまう。
この国民性が敗戦後、経済大国として発展したひとつの要因だと思います。
アッパレです。ご先祖様方。

さて、前述した通り原点は輸入品でしたが、昭和二年頃になるとパチンコの原型となる遊技機が登場します。この頃はまだ玉を使わず一銭銅貨をはじく遊びとして、「ガチャンコ」とか「パチパチ」「パチン」とか言われていたそうです。

所詮は子供の遊びですもんね。
地方によって遊び方は共通でも呼び名が違うのは今でも多いですし。
私が子供の頃遊んだ「ぬすたん」が東京では「けいどろ」や「どろけい」と言われていたのは衝撃でした。(笑)
この呼び名はかなり少数派かもしれません・・盗人と探偵ですもん・・。

昭和五年にはパチンコの遊技場が愛知県で申請、許可され、パチンコ店が登場します。
子供の遊びが大人にウケたのが原因でしょうね。
「パチンコ」という名称になったのは昭和七年の事。
この頃にはパチンコ遊技場がすでにあり、一銭パチンコと言われる投入口に一銭銅貨を入れると玉がでて、入賞すると一銭銅貨やメダルが払い出されるものでした。
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昭和十年になると、その一銭パチンコが禁止されます。
理由は「皇室のご紋の入った硬貨を遊技に使用するのはまかりならない」と言う事だったようです。
この出来事で直接一銭銅貨を払い出す事が出来ず、景品交換をする必要がうまれ現在のパチンコ営業のスタイルになったのです。



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ちなみに景品はやはりお菓子が主流だったようです。昭和12年頃では五銭で玉が五個と交換。景品は玉五個以上で森永ミルクキャラメルが交換できたんですって。もし近所のパチンコ店の景品に森永ミルクキャラメルがあったら、戦前のパチンコを思い返しながら交換してみると、なんだが時代を超えた懐かしい感覚に浸れるかも知れません。(んなワケないですね・・生まれてないですし・・) ※左上は昭和15年に発売された慰問袋用ブリキ缶入り森永ミルクキャラメル(20粒入り/50銭) 右は昭和12年に開催された「森永母の日大会」の広告


徐々に発展していくかと思われたパチンコ業界でしたが、戦争に突入し状況は一変します。
昭和12年に日中戦争が始まるとパチンコ店は新規営業が禁止され、昭和15年にはパチンコ遊技機の製造が禁止されます。
さらに昭和17年には全面禁止にされ、パチンコ台は全て処分されてしまいました。
戦前のパチンコ台が現存しないのはこの事が大きな原因です。
戦争が終わる昭和20年まで、パチンコは世の中から姿を消す事となったのです。

そして戦後。戦中の空白期間を取り戻すかの如く、パチンコは様々な発明や創意工夫により急速に発展していく事になります。

戦後の発展期編は、次回。


大正時代にふとした舶来品から子供向けの遊戯機として静かにスタートしたパチンコ。
このパチンコ黎明期とも言える大正末期から昭和初期、戦前戦中の時代まででも、色んな変化があったんですねぇ。
この頃からお上の方針に左右されているのは今も変わりませんね。





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森永ミルクキャラメルに関わる一切の知的財産権は、森永製菓株式会社に帰属します
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by bar-_-seven | 2005-01-17 15:44 | パチンコの歴史